「報告の基本」について考えてみよう!
仕事を進める上で重要なポイントはいくつかあるが、報告については早い段階からかなり厳しく鍛えられたことのひとつだなー思う。
タイミングと内容。
タイミングは、早くても遅くても、結果、怒られる。
内容ともリンクすることなのだが、例えば自分の担当する事項でトラブルが発生したとする。
トラブルは原因を問わず、担当者の責任ということになっているから、何か起きた時は担当は必死だ。
あちこちに連絡して、まずは事態の概要を把握することに奔走するのだが、なかなか短時間のうちに的確な情報を得ることは難しい。
トラブルが発生したことは何となく上司にも伝わっていたりするので、苦虫をかみつぶしたような表情で報告を待っているのが常だ。
「もう、これが報告時限の限界」と思うギリギリに上司のところへ走って行って内容を伝える。
すると、さらに詳細を問い詰められ、答えに窮すると叱られる。
こんなことが何回か続くと、やはりきちんと状況を把握してから報告したほうが良いと知り、少し時間をかけて情報を収集して報告にいく。
すると、こんどは開口一番「そのトラブルはいつ発生したのか?」と厳しい口調で確認される。
発生から営業店が本部へ連絡する間にも時間がたっているのでトータルで30分ほど前の時間を答える。
「なんで、もっと迅速に報告しないんだ!」ものすごい勢いでまた怒られる。
次は直ぐに報告する。
すると今度は、
「では、その事象にどんな対策を打っているのか?」
と来る。
「まずは、急ぎご報告をと思い、具体的な対策はまだ、、、」と言いかけると、
「子供のつかいじゃないんだから、どう対処するかも同時に報告がないと話しにならないじゃないか!」
と、えらい剣幕。
結局、早くても、遅くても、ある程度内容が整理されていても、そうでなくても、全部怒られるということがわかってくる。
ハッキリ言ってやってられない。
最近なら「パワハラだ」と内部通報してしまうレベルだ。そのくらい厳しく怒られるからだ。
でも、職責を全うしたいと思えばこそ、知恵を絞る。
「どうせ怒られるのなら、さっさと第一報の報告をしてしまおう。詳細や対策はそれからだ。」
と腹をくくる。
そんな風に叱られながらも報告を繰り返していくと段々と要領がつかめてくる。上司の知りたいポイントも分かってくるのでそこだけは確認したりと知恵もついてくる。
こうして短い時間でアタマをフル回転して優先順位を考え、いかに伝えるかの表現の仕方を考えて、また常日頃からそうした事態に備えての人間関係を構築して準備する。
自分だけの「失敗ノート」という名前の備忘録を作って反省点をメモしたりと、考えられる限りのことをするようになる。
それもこれもあの鬼軍曹のような上司に何十人もの同僚の前でつるし上げにあいたくないからだ。
このモチベーションは強い。
短期間のうちに、報告についてはマスターすることとなる。
今から思えば上司もいちいちあんなに怒るのもエネルギーが必要だっただろう。
その時は、こわくて、くやしくて、このヤローと思っていたけれどあの時の基礎がその後の自分をどんなに助けてくれただろうか。
そう思うと上司に感謝の気持ちさえ。。。です。
いまはそんな鍛えられ方をしない。
人は誰でも「自分には甘い」から誰かが厳しくしてくれる必要があるのかも知れない。(程度にもよるけどねー!)
今の状況は自分に何かを教えようとしているのでは???って一度立ち止まることも案外意味あるかも。。
(まー、いま真っ最中だと気づきにくいなーー。当時わかんなかったもんなー。)
「寝れないときは食べろ、食べれないときは寝ろ!」って、どーよ!
この言葉は当時、銀行では良く聞かれた言葉だ。
みんな激しく仕事をすることが基本なので、早朝から深夜まで、休日も含めて働くのが当たり前だった。
当然十分な睡眠時間が確保できないことがままある。
そんな中でも体調管理は重要な職務の1つだ。
仕事が忙しく寝れないときは食べて体を維持し、食事をすることができないほどになってしまったら、とにかく寝て休養をとれという意味だ。(まっ、再び激しく働く為に。。なんだけど。)
厳しい言葉のようだが悲壮感はなかった。
みんな真剣に働いている職場には常に極度の緊張感が漂っていたが、暗くどんよりしたものではなかった。
例えて言えば「道場」のような感じだろうか。
そこには伝統的に受け継がれてきた流儀があり、師匠がおり、先輩や同僚がいて、切磋琢磨しながら1つの道を究めようと、日々お互いに精進する。皆、真剣だ。
そんな風に人々が集まり、一枚岩になっていたのだから、筋肉質で強靭な体質の組織が実現していた。収益率も悪くなるわけがない。
多様性(ダイバーシティ)という名のもとで、一部にフリーライダー(上手に立ち回りあまり働かないで給料をもらう、組織にタダ乗りをする人々)が増えている昨今の組織をどのように活性化させるか、というのは今後さらに重要なテーマになると思う。
当時の銀行だけが唯一絶対の模範解答ではないが、一定の規律や緊張感が不可欠であることは間違いないだろう。
ときに寝食を忘れ、仕事に没頭する時期が人生に一度や二度あったっていいと思う。
「仕事ぶりは必ず誰かが見ていてくれている」ってウソくさくない?
若い時にどうしても信じることができなかったものの1つがこの「頑張っていれば、その姿を必ず誰か最低ひとりはちゃんと見ていてくれてるもんだよ!」という言葉。
この言葉は、けっこう頻繁に言われた記憶がある。
銀行ってちゃんとできて当たり前なので、基本、ほめられることは。。まず、ない。
若いうちからかなりの責任と分量の仕事が割り振られ、四苦八苦しながらそれをこなすことになる。かなりキツイのだが、首尾よくできても特に何か言われることはない。
でも、節目節目で誰かがこの「必ず見ていてくれる」という言葉を掛けてくれた。
当時わたしはこの言葉は年配の方が何も分からない若手を便利に使う為に言う「方便=ウソ」だと思っていた。
「その内、いいこともあるかもしれないから、今は文句を言わずに激しく働け!」とだましているのだと思っていた。
でも、振り返ると、不思議なことにどんな苦しい時にも誰かが何らかの形で助けてくれたり、励ましてくれたりしてくれていたように思う。
少なくとも自分にとっては「必ず誰かが見ていてくれている!」という感覚は事実だったと思う。
だから、今の若者にも同じように「君の仕事ぶりは必ず誰かが見ていてくれているよ。むなしく徒労に終わることはないよ。」と声を掛けてあげたい。
まあ、当時の私のように「そんなことないだろう」と心の中でつぶやくんだろうけど。。それでもいい!
ホント無謀!!→〈企画書〉目の前に段ボール箱一箱分の資料があったとしても、その案件の内容が本当に理解できていれば必ずA4一枚にまとめることができる。
社会人4年目。突然の辞令で本部に異動することになった。支店をサポートする企画部門だった。
この時期に本当にキツイ思いをして仕事に取り組むことになるのだが、ここで自分の仕事の基礎体力をつけることができたと思う。
業務内容は事務企画の立案と現場と一体となった推進だ。
企画を進めていく上でまず重要になってくるのが企画書の作成だ。
銀行では本部スタッフとしてある案件の担当になるということはとても重みのあることだ。
担当になったらその案件についてあらゆることを把握していることが求められる。
プロセスや結果における責任もすべて担当者の肩の上にずっしりと乗ってくる。
「すべてを把握していることが当然」という前提で作成する企画書にも相応の水準が求められた。
なによりも最初に戸惑ったことは、とにかく一枚のペーパーにまとめることだった。
案件の内容がある程度込み入ってくると扱う情報量が増えるのでどうしても文字数が多くなってくる。
概要を書いているだけですぐに数枚になる。
しかし、2枚以上の企画書を直属の上司に回しても目を通してさえもらえない。
むりやり一枚にまとめて書くとようやく見てもらえるのだが単に圧縮しただけの企画書は何が言いたいのか要領を得ないものになってしまっているから、赤を入れられて突き返されることになる。
そんなことを10回、いや、それ以上繰り返してようやく直属の上司を通過して、また次の上司のチェックが入り、最後に部門の決裁権限のある部長に回って案件説明をすることになる。
部長室で一対一でする部長宛の案件説明は緊張するけどとてもやりがいのある瞬間でもあった。
説明資料はそこに到達するために何十回も練られているので、当時の自分なりに自分の言葉で語ることができたと記憶している。
無理やりにでも一枚にまとめるプロセスの中で案件の内容が整理され無駄な修飾語は排除され、削り上げられ磨き上げられたものを作ることができる。
渾身の思いで一枚にまとめたその企画書にはいつしか説得力が生まれ、その企画を推進していく上での強力な武器となっていく。
そんな企画書を書くのにまず必要なことは、どんなに複雑と思える案件でも、どんなに多くの資料があっても必ず1枚にとりまとめることができるという意識であり、それを実現するために一言一句を徹底的に考え抜くことだということを先輩、上司に実践で鍛えられた。
信じて頭の中を整理していけば、1枚にまとめることが必ずできた。
この時期に叩き込まれたおかげで、今でも1枚にまとめることはそんなに苦にならないし、役立っている。
最初は無茶を言っているとしか思えなかった「目の前に段ボール箱一箱分の資料があったとしても、その案件の内容が本当に理解できていれば必ずA4一枚にまとめることができる。」という言葉も今では本当にその通りだなーと。。
これでメシが食えているのだから、若い時に鍛えてもらえることは本当に価値あることなのだといまさらながら。
大人ってヤダねー!!!→仕事はすべての力を出し切ってするな!同じことを7割の力でやって、残りの3割のエネルギーを自分がいかに仕事をしているかを周囲に知らしめる為に使え!ってムリでしょ!
まだまだ慣れない仕事をドタバタとやっていたんだよね。
今から思うとずいぶんと要領が悪かった(あー、落ち込むな〜、思い出すと。。)
そんな新入行員を気にかけて声を掛けてくる先輩も当時は少なくなかった。(当時はそんな先輩らは正直面倒くさかった!)
隣の部署のA先輩もそんな中のひとりだった。
ある日、A先輩がつかつかとやって来て、
A先輩:「君の仕事をしている様子は必死な気持ちが前面に出過ぎている。
そんなことでは銀行では、この先やっていけない。
今の仕事くらいは7割くらいの力できちんとこなして、
3割は他のことの為にとっておかないと話しにならない。
残りの3割でなにをするかー!?
その力を自分がいかに仕事ができるかを上司や周囲にアピールする為に使うんだ!!!」
さらりとそう言ってスタスタと行ってしまった。
自分:デターーー大人のこのイヤな感じ。。
20代前半の当時、その言葉にすごく反発心を覚えた。おとなってズルイなー、と。
「自分をアピールするために余力を残しておくって、なんかいやらしい考え方だな。全力でやるべきだ。」
でも、なぜ、わざわざそう言ってくれたのかも、少し気になっていた。
その言葉の真意は後に徐々に分かってくる。
組織の仕事はひとりでは完結できないこと、周囲が認めることがいかに意味あることかということが分かってきて、「あー、あの先輩は僕のことを本当に考えてくれて、ああいうことをわざわざ教えてくれたんだな」と。
それに7割の力でやれ!とは言ってたけど3割手を抜けとは言ってない。3割分力を高めるように言っていたのだ。(あー、ムズカシ。)
厳しい組織で結果を出して生き残っていくのはそんなに簡単なことではない。
周りはみんなやる気も力もある人ばかりだ。
ある意味、仕事はできて当たり前の世界なのだ。
そのことを効果的に伝える意義に気付くのにはそれから何年もかかったけれど、当時のその先輩の言葉には今でも感謝している。
「きれいごとではないその言葉」は深いと思う。「あり」だと思います。
コピー取り1枚でも、仕事ができるかできないかが分かるって、なにそれ?
まだ銀行で働き始めて1ヶ月もたたないある日のことなんだけどね。
上司:「これコピーお願い!」と書類を渡してきた。
自分:(受け取るとすぐにコピー機に向かった。)
さっと終わり「コピーできました!」と持っていった。
「ありがとう。」と言われると思ったら、ぶっきらぼうに、バッとつかんで会議室に走っていってしまった。
「えっ!こんな感じなワケ???」
それから小一時間してから、不機嫌な顔をした上司がやって来た。
上司:「コピー1枚取らせても仕事ができるかどうか分かるんだ!!!!!!」とえらい剣幕(怒)
それだけ言い残してその場を立ち去ってしまった。
自分:えっ、いま、叱られたよね?
言われた通りコピーしただけなのに、叱られたよね?
さーっぱり意味が分からない。(なんじゃそりゃーーーーーー???)
人生の中でコピーを取っただけで叱られたのは後にも先にもこの一度きり。
鮮烈な記憶なんだ。
で、「コピー1枚で仕事ができるかどうかが分かる」という言葉の意味って、分かる人いる?
その後も教えてくれた人はだーれもいない。
でも長年働いていると自分なりにその意味がなんとなく分かってきたんだよね。
詳しい説明がなかったことも含め、心ある指導だったのかなーって思う。
現代で同じ状況なら
「ちょっと悪いけど、このコピー、ここをこういう風にやり直してくれるかな」と説明するか、
簡単なことなら上司自身が自分でさっさと整えておしまいにするような気がするんだよね。
叱る側にはあまりメリットはないのだ。(叱るのって実はしんどいのよ〜)
それを思うと事あるごとに叱ってくれた当時の上司や先輩は本当の意味で優しかったのかも?って、後で気づくんだよね。
人を育てるとはコピー1枚のタイミングも逃さず声をかけるほどに手間のかかることだと納得している自分が今いるってことなんだ。(まっ!上司と部下とに信頼関係あってのことかも知れないけどね。)
でもありがたいことだよね。叱ってくれる人が「見ててくれる」って、さ。。
今の若者には分からないのかな〜?(ブラック企業とはちょっと違う話しなんだけど)
追記
「コピー1枚で仕事が分かること」の意味はまた別の機会に詳しくお話するね。文字より直接しゃべった方が伝わる気がするんだ!
「できて当たり前」という地獄!→あなたが入ったところはどこか分かってるの?あなたの入ったのは銀行なのよ(キーッ!!!)
銀行に入行すると、まず、どんな風に仕事を覚えていくのか?
あの窓口の優しい感じのひとが手取り足取り教えてくれるのかな〜?と思ったら、まったく違う。
イキナリ、やらされ、実地で覚えていく感じだ。
「こんなのイキナリできるワケなーい!」と心の中で叫びながら。。